5月吉祥寺シアター公演・6月ダンスボックス公演まとめ

 

2011 年は 5 月東京・吉祥寺シアター、 6 月神戸・ダンスボックスの 2 箇所で、 6 回の公演を行った。
公演は、昨年 2010 年に岡山と埼玉と 2 箇所で演っているから、 2 年目でもある。

そもそもこの公演は、 2008 年に ForsytheCompany に在籍する Yannis が、 11 月から 12 月の 2 ヶ月の長期にわたって、私の道場に合宿に来たことに端を発する。
その時期に、丁度神戸のダンスボックスが、オープンすることになっていたので、 Yannis を舞台に上げることを考えた。
そこで、ワークショップを開き、オーディションで選ばれた人達と、 Yannis が一緒に踊るという趣向だ。

一流のダンサーを観るのは楽しいし勉強にもなる。
しかし、同じ舞台に上がるとなると、空気感や緊張、また舞台直前の自分の作り方、それらを実践的に学べる。
その意味で、日本のダンサー達に、非常に有意義だと思い決行したのだ。

神戸でのワークショップや、その時のショーケースの模様はここにある。
毎年ワークショップに参加してくれていた、高校生も舞台に上げた。
若い人が一流の人の空気を学ぶには、同じ舞台に立つのが一番だからだ。
しかし、この少年はそれだけのことで、出演させたのではない。
素直な動き、素直な躍動感が、どのダンサーよりも新鮮だったからだ。

そこで、展開された Yannis と日本のダンサー達の、スピード感溢れる舞台を観て感動した、岡山の一人が「公演としてやりたい」と言ってくれたのだ。
それを Yannis に言うと、是非演りたいとのことだったので、主要ダンサー達と直ぐにリハーサルに入った。
しかし、若干物足らないと感じたので、毎年行う東京でのワークショップで探そうと思った。

このワークショップに久しぶりに顔を見せてくれたのが、ノイズムにいた山田君だ。
そこで、山田君に声をかけ公演に出てもらうことにしたのだ。
山田君は、ノイズムで公演の数もこなしており、何よりもダンスが好きだ。
それが彼の全ての仕草から見える。
そして、自分のスタイルを持っている。
そんなところから、こちらから与えるテーマを、十分に消化してくれるだろうと判断したのだ。
そして、何よりも現在のコンテンポラリーダンスの世界を変えたいと思っている一人だったからだ。
その物事と対峙している情熱がなければ、良いものは生まれてこない。

パーツに分けてリハーサルに入ったのだが、難しかったのは、ダンサーが東京と京都に分かれていることだ。
全体のリハーサルが中々出来ないのだ。
しかし、お互いにネットで連絡を取り合い、良い方向に進んでいた。
公演の日取りが決まり、フライヤーやプログラムを印刷するという段階に来て、思わぬアクシデントが発生した。
それは肝心の Yannis が、ベルギーでのフェスティバル出演とバッティングしてしまったのだ。
私は急遽公演を取り止めにしようと提案した。
しかし、ダンサー達は公演を演りたいという希望だった。
であれば、内容を変更して、日本人ダンサーだけの公演ということにした。
Yannis が抜けた弱さをどこでカバーするか。

頭に浮かんだのが俳優の平岡秀幸さんだ。
平岡さんなら、どんな難題でもこなしてくれる。
すぐに平岡さんに連絡を入れ、出演してもらうことが決まった。
そこで、平岡さんを加えた作品を作り出したのだ。
Yannis が出演した時よりも良い舞台を。ダンサー全員の思いだ。
(公演のレポート)

というような経緯があり、今回の公演に繋がってきたのだ。

今回の公演の下地は、当然昨年の公演にあった。
そこをどう発展させるか。
どれだけダンサー達がレベルアップ出来るか。
決して作品を発表するのではない。
そんなものはどうでも良い。
ダンサーが浮き彫りになる舞台。
それが目的だ。
だから、振り付けは最小限度になり、ダンサー達の自由度、逆に言えば、実力だけが見える、そんな舞台だ。
要素としては、意識がコンタクトし合うのだが、それを引き金として意識を超えた、つまり、生体レベルでのコンタクトというのが、公演のメインテーマとなる。
言葉として説明すれば、何だか分かったような分からないことになるが、実際には無意識的な機能を働かせるということだ。
意識としてのコンタクトを角度を変えて言えば、芝居、演技っぽい、あるいは、臭い、わざとらしい、嘘っぽい、ということになる。
いわゆる舞台にあることだ。
だから、そこを通らずに「本当に」というところに行く。
「本当に」のコンタクトは難しい。
意識に蓋をしなければならないからだ。
舞台で無くても難しいのだから、それを表現というレベルに持っていくのは、相当難しいものだ。
これをメインテーマに選んでいる理由は、実際の舞台での「本当に」は、それだけで美しく、それを観ているだけで、観客のこころが共鳴するからだ。
そして、これも本当の身体でのコンタクトだ。
コンタクト・インプロという言葉は、使い古されたものであり、現在もどこにでも転がっている言葉だ。
しかし、それは私のいうコンタクト・インプロではない。
私のいうものは、相手からの力の情報や、方向の情報、そして精神的ニュアンスを感じ取り、同時に「動いている」という状態を指す。
だから、それは舞台では過去には存在していない手法だ。
これら二点の要素は、実は Forsythe Company や、ヨーロッパでのワークショップで指導していることだ。
コンテンポラリーダンスの本場で、これらを指導しているというのは奇妙なことだと思うだろうが、実際これらはヨーロッパには無いのだ。
だから、 Forsythe Company のダンサーをはじめ、ヨーロッパで活躍するダンサー達が身に付けたいと思うのだ。
この二つの要素は、実は日本の歴史に残る伝統武道の達人、例えば伊藤一刀斎や宮本武蔵などが身に付けていたもの、つまり、日本の伝統文化の最高級の遺産である。
当然、日本以外のどこにも、そんな概念などなくて当たり前なのだ。

そして毎年夏に行っている東京のワークショップに、山田君のパートナーである高原さんが参加した。
人目で「これは行ける」と思ったので、直ぐに公演出演を打診した。
しばらくの間をおき、了承してくれた。
となると、面白いものが作れると確信したのだ。

昨年の 11 月京都でワークショップがあった。
その時受講してくれた人の中に、俳優の平岡さんもいた。
ワークの最中、色々と平岡さんと中身を試した。
そのワークショップの打ち上げの時、平岡さんと飲みながら「一つの単語だけで芝居は出来るのでは」とふってみた。
そして、それを飲み会の席で即興的に演ってみた。
隣に座っていた平岡さんの奥さんが、噴出した。
「おもしろい!」と。
どうなるか分からない、スリルがたまらないとおっしゃった。
もちろん、それが出来る為には、相当の実力が必要だ。
相手の「単語」に反応できなければならないからだ。
言うのではなく、作るのではなく、反応できるかどうかだ。
しかし、相当面白いことが起こる可能性を持っていると判断し、これを次のワークショップで展開し、尚且つショーケースに乗せてみよう、と思った。
そして、翌年 2 月の神戸ダンスボックスでのワークショップへと繋がるのだ。
神戸のワークショップ

実際、ワークショップで試みたが、ものの見事に外れた。
そんな実力を持った人というのは期待していなかったが、そんなことを面白いと取り組む人がいなかったのだ。
自分のキャラや、自分のテリトリーに引き込む人はいたが、それでは意味が無いのだ。
それでは舞台では何も起こらない。
このことだけを考えていただけに、これがショーケースで使えないとなると、違うことを考えなければいけない。
そこで急遽、一つの単語の変わりになる、一つの動きをテーマとしようと決めたのだ。
それが今公演の冒頭のシーンだ。

このシーンは、最初からシーンの終わりまで、完全即興だった。
一つの動きの流れを決めているだけで、何時どのように、どうするのか、そしてどうなるのか、ここを全く決めていないのだ。
二人のシーンは大体 15 分くらい、というアバウトな決め方はあった。
もちろん、リハーサルも適当にしかしない。
本番だけが本番だ。
ショーケースは、大成功だった。
平岡さんとの掛け合いが、上手くいったのだ。
そこで、このシーンを公演に乗せることにしたのだ。

4 月 15 日

各シーンの移行がスムーズに流れすぎる。  
私としては良いのだが。  
神戸でのリハーサルで、平岡さんとの場面は、全く違う意味で面白かった。  
というのは、お互いに隠し球を持っており、それを見せないし匂わせないからだ。  
打ち合わせてしまうと、全く面白くないので何も言わない。  
その辺りの緊張感が、たまらなくスリリングで面白かったのだ。  
即興の妙、勝負の妙だ。  
お互いに何を仕掛けるのか、これっぽっちも見せない。  
2 幕目の頭は、「何?これ?」が暗転の中から始まる。  
何でもありとはこのことだ。  
30 分後のクライマックスに向かってひた走る。  
直径 1m 以上の和太鼓が、ダンサー達を舞台後方から煽るから、全員ダウンするまでやる。  
面白い!  
土曜日は東京組みリハーサルだ。  
まだ新たに試してみたいことがある。  
高原さんもどんどん良くなっている。  
「あかんで、動いたら」   この薬が大分効いてきたようだ。  
もちろん、山田君もそうだ。  
私は山田君と絡むことにしているから、相当の運動量になりそうだ。  
しかし、ダンサーよりも動けるところを実証してやろうと思っている。  

4 月 16 日

一幕目の衣装はミナペルフォネンにした。  
寺門さんの絵と相性が良いからだ。  
平岡さんももちろんミナを着る。  
もしかしたら、出演者の中では一番似合っているかもしれない。  
それだけ、人間が多様性に富んでいるということだ。  
俳優という仕事は、色々な監督や演出家の注文を聞き、それをこなさなければならない。  
そんな環境が、人の厚みや変化に即応出来る人を作り出しているのだ。  
公演はシーンが変わる。  
シーンごとに演出をするのだが、ポイント以外平岡さんにお任せしている。  
どうすれば自分が際立つか、どうすれば相手役が光るか。  
そんなことを舞台上で実験しながら演じてくれるからだ。  
その試行錯誤を見ているだけで飽きない。  
言われたことをするのではなく、言われた事の中身やそれ以上の効果を出せてこそ舞台人だ。  
平岡さんのアクションに戸惑うダンサー。  
あるいは無視しているダンサー。  
そこに幅の薄さが見える。  
そんな即興のコラボレーションも、ダンサー達にとっては貴重な体験だ。  
立っているだけで絵になる、そんな平岡さんを迎えての舞台。  
吉祥寺シアターで、大人の笑いが聞こえるのが楽しみだ。

4 月 18 日

犬に躾や行儀を教えるのは難しい。  
それは人ではないからだ。  
つまり、言葉が通じないから、というのが一番の原因だ。  
しかし、プロの犬を躾ける人は、いとも簡単に躾ける。  
それは、じっくりと犬を観察し、犬の行動則にそって躾けていくからだ。  
では人同士は、簡単に通じ合えるのか。  
言葉だけのやりとりなら、それは yes だろう。  
しかし、行動を伴った言葉となると、つまり、言葉で行動を指示するようなことであれば、はなはだ難しい。  
というよりも、犬以上に通じないのではないかと思う。  
それは、お互いに言葉だけに頼るからである。  
旭山動物園の元園長が   「人は言葉が絶対だと信じているから、逆にコミュニケーションがとれない」   という主旨の事を話されていた。  
その事は、常に感じている。  
言葉第一主義になっているから、気遣いの感性など育つ筈もない。  
アメリカの刑務所で、プリズンドッグのシステムが導入されている。  
おかげでその刑務所での再犯率が相当減ったそうだ。  
処分される前の犬。
その中でも虐待等をされた、問題を抱えた犬を探し出し、囚人が育てるのだ。
大体 2 カ月で、人を信頼し使い物になる犬に仕上げるという。  
当初「 2 か月かかるんか」と思ったが、よく考えてみると、犬の寿命から言えば、人の約 1/7 くらいだから、逆に人間であれば、 5 年ほどかかっていることになる。  
それは、自分自身が自分の癖を矯正したり、何か新しいものを身に付けるのにかかる時間だ。  
但し、 5 年間毎日 6 時間、それに集中的に取り組んだとして、ということだ。  
新しい事を身に付けるのは難しいのだ。  
ダンサー達は、その新しいことに全力で取り組んでいる。  
そして、その新しい事で公演をする。  

4 月 20 日

寺門孝之さんに書いてもらったポスター用の絵。  
(寺門さんを知らない人は、もう公開が終わったけど、映画「人間失格」で使われていたのが、全部寺門さんの絵です)  
最高です!!  
公演に対するコメントも頂いています。  
この絵が今回 T シャツになります。

4 月 21 日

どんなことでもそうだが、慣れてくる、あるいは、上手くなる、というのは、面白くない。  
ワークショップ後にショーケースがある場合、オーディションをする。  
その時に「面白い」と思った人が、リハーサルを積むにつれ、どんどん魅力が無くなっていく場合が多い。  
それは、その動きや形式に慣れていき、その動きや形式をこなすことばかりに頭がいっているからだ。
最初の「面白い」と感じたのは、動きではなく、それに取り組むその人の姿勢、あるいは、必死さ緊張感が、姿と相まって魅力なのだ。  
しかし、時間と共に当初の必死さが失われ、緊張感も失われて、全く魅力のないものになる。  
今年の 2 月、ダンスボックスで行ったショーケースでも同じことがあった。  
「アホか、上手くなってどうすんねん、あかんはお前ら」  
となった。  
動きを覚えた余裕が、そこに見えたからだ。  
つまり、どこからみてもただの人、その辺りを歩いている人になってしまったということだ。  
つまり、その人達は動きや形が重要なことだと捉えているということだ。  
だから、動きや形が出来てきたら、それで精神的余裕が生まれ、そのことが見えてしまうのだ。  
問題は、そこからどれだけその動きや形を、自分としての必然に持ち込めるか、そこが一番大事なところなのだが、どうもそういうことは理解されていないようだ。  
そこからが地獄の苦しみなのだが。  
その事が全く理解されていない。  
だから、今回の公演ではメンバーを削った。  
どうみても、街を歩く若者でしかない。  
あるいは、精神科にお世話になっているような、思い込んだ病的な目をした人でしかないからだ。  
そこは言葉では、理解できない範疇だ。  
つまり、言われて分かるものではなく、自分で見つけ出さなければいけない部分だからだ。  

4 月 22 日

女性プロデューサーの河瀬直美さんの話があった。  
桃井かおりさんが出演した映画でのことだ。  
「役者はいらない、次に起こる事を知っているから、それに向かった台詞回しや、演技になりその時のリアルな演技にならない。」  
ドキュメンタリーではないが、シーンシーンをドキュメンタリーのように、リアルにしたい。  
というような内容だった。  
桃井さんは、相当しぼられたそうだ。  
この話は、本当に面白かった。  
ダンスにも、武道の稽古にも、人生にも共通しているからだ。  
「次のことが頭にあるから、今のそれをせずに、次のことになっている」  
それの連続だから、何も積み上げられないのだ。  
そして、やっていること自体がスカスカのものになるのだ。  
河瀬直美さんも、その意味でのリアルを追及しているのを知り、嬉しくなった。  

4 月 26 日

昨日は、平岡さんを交えて京都組みのリハーサルを行った。  
二幕目の平岡さんをフィチャーした舞台の軽い通しだ。  
とにかく、ダンサー達は全員倒れた。  
顔面蒼白とはこのことだ。  
平岡さんは、三度ほど頭がクラっと来たそうだ。  
超ハードというしかない。  
クライマックスだけの 10 分足らずのリハでも、皆倒れた。  
観ている方は面白い。  
笑いがこみ上げて来る。  
カメラを忘れてきたので、その姿を見せられないのが残念だ。  
一幕目のラストシーンも、色々と試行錯誤の末、ラフスケッチが出来た。  
平岡さんと佐藤健大郎のコンタクトが、俄然良くなった。  
佐藤が何かを掴んだのか偶然なのか。偶然であれば、使い物にはならない。  
次の京都組みのリハが楽しみだ。  
動きの一つのフレーズが終わると、気分が終わる。  
移動をすると気分が終わる。  
そこをどうするか、という一番大事なテーマも、少しずつ良くなってきた。  
もちろん、これも偶然なのか、確かなものなのかは分からない。  
それは、それぞれのダンサーの受け取り方次第だ。  
平岡さんと色々試すのは、やはり面白い。  
試している事が、お互いに見えるし、第三者にも見えるからだ。  
二幕目だけの人達も、どんどん見る目が出来て行く。  
その目は、将来役に立つ。  
間違った見方をしていれば、つまり、具体的に今目の前で起こっている事のポイントが見えなければ、何を直して何を引き伸ばすかが分からない。
  コントラストの付け方も分からない。  
即興的に自分はどの位置に行くのが良いのかも分からない。  
まあ、何も分からないということだ。  
だから、自分の思い込み優先になり、場としての技術など練り上げられる筈も無いのだ。  
また、平岡さんとダンサー達のコンタクトを見ていて気付いたのが、平岡さんはしっかりとした距離感を持っているが、ダンサー達にはそれが見当たらないことだ。  
つまり、そういった舞台での人間関係が全く重要視されていないということだろう。  
もちろん、それではいけない。  
しかし、知らないのだから仕方が無い。  
学んでいくしかない。  
その意味でも、今回の平岡さんを交えてのリハーサルは、非常に有意義なものだった。  

5 月 3 日

今日は、フランス人が一人東京の武道教室に参加していた。  
日本語は話せるが、難しい専門的なところは無理だ。  
ましてや、武道のニュアンスとなると、言葉はまるで用をなさない。  
しかし、それが良い。  
観察をして、真似る。  
この当たり前の作業に長けているのだ。  
それは、十数年前、ドイツから一人でやってきた 17 歳の少年を見ていて分かったことだ。  
言葉が通じないが故に、観察力が鋭くなる。  
あるいは、分からないなりに、言葉のニュアンスを読み取る。  
終わってみれば、その合宿では 17 歳の少年が一番理解していた。  
これは再三再四ここで書いていることだが、それをまた改めて今日感じた。  
ある意味で、言葉が通じる不自由さを痛感する。  
実際には出来もしないのに、言葉は理解する。  
もちろん本当の意味での理解では無い。  
言葉の意味を、自分のレベルで理解するだけだ。  
しかし、そのことを分かっていないから、自分のレベルの理解で良いと思ってしまう。  
だから、何一つ成長しない。  
そんな悪循環が見えて来る。  
もちろん、それは武道に限ったことではない。  
ダンスとて同じだ。   さきほど、ヨーロッパの大きなカンパニーの芸術監督からオファーのメールがあった。  
言葉は通じないが、本質的に通じる人達がまた世界に増える。  
ほんと嫌になる。  
武道にしろ、ダンスにしろ、日本人の豊かな感性を持ってすれば、アスリートで日本代表の人達と同じように、世界に認めさせることくらい簡単な事なのだ。  
もちろん、足の引っ張り合い、出る杭を打つ、という島国根性や村社会思想から脱しなければ無理だが。

5 月 11 日

公演の二幕目は俳優の平岡さんをフィチャーしたものだ。  
和太鼓がそれに絡むという図式になっている。  
今日、ふと閃いた。  
私が絡んでやろう、と。  
しかも和太鼓で。  
ドラムではないから感じるに任せて叩けないが、その分センスで勝負だ。  
なんせ出たとこ勝負の即興はお手の物だからだ。  
二幕目は、和太鼓で思い切り汗をかいてやろう。  
情宣不足で、お客さんが少ないのなら、その分こちらが思い切り楽しんでやる。  
このさい「日野晃祭り」にしてやる。  

5 月 13 日

昨日は、 J-WEVE のクリス智子さんのコーナーに出た。  
20 分程の短いコーナーだったが、楽しく智子さんとお話が出来た。  
短時間で、というのは面白い。  
余程頭を回転させていなければ、あっという間に過ぎてしまうからだ。  
智子さんとは結婚式依頼、というのもあり、一寸緊張気味だったが、ラジオにすればうまくいった方だと思う。  

美緒ちゃんもシゲヤンも進化した。  
「人が関係し合っている」がよく見えるようになってきた。  
そうなる為に、様々なアプローチをしてきた。  
だから、何が原因でよく見えるようになったのかは分からない。  
進化する時はそんなものだ。  
これをしたからこうなった、という単純なものではない。  
もちろん、そういった単純な出来事もあるが、それはそのこと自体が単純だからだ。  
これなら舞台にのせる事ができる、というレベルは、色々な要素が絡んでいるので、単純ではない。
二幕に出るダンサー達も見学に来ていたが、刻々と進化する二人の姿に、ただただ驚いていた。  
練習前の遊びでシゲヤンが足を痛めたが、まあ今日は回復しているだろう。  
今日から、山田、高原、鈴木が合流するので、本格的なリハーサルとなる。  
二人の事があるから、きっと皆影響され一瞬で進化するだろう。  
今日は、荻窪にある六次元というカフェに宣伝に行こうと思っている。  

5 月 18 日

今日はゲネ。  
といっても、昨日から通しリハを何度もやっているので、ピンとこない。  
衣装を身に付けるという程度のものだ。  
平岡さんとの即興は一層の磨きがかかる。  
高原さんも山田君も高いレベルで、悩みが増している。  
それは良い事だ。  
皆が相乗効果で良くなっている。  
二幕目で、初めて和太鼓を交えてやってみた。  
これが、最高だ。  
一幕目が吹っ飛んでしまった。  
そうなると、一幕目はどうする?という嬉しい悲鳴になっている。  
明日から 3 日間。  
画家の寺門君が書いてくれた   「舞台にどしゃぶりの雨の死闘をみた」   という言葉以上のことを起こしてやろうじゃないか。  

5 月 20 日

初日が開いた。  
一時はどうなる事かと思っていたお客さんも、六次元カフェでのトークショーや、寺門さんや桜井さんがツイッターしてくれたことで、満杯にはならなかったが、半分にはなった。  
ビフォアートークは、乗りすぎて開演時間を回ってしまった。  
おかげで、使おうと思っていた刀も棒も使えなかった。  
それは明日に回そう。  
一幕目の内容を、今までやってきた一シーンを完全カットし、本番直前で作り直した。  
劇団四季のメンバーや、青年団、文学座の人達、その他多くの知人が来てくれた。  
終演後、皆が開口一番「楽しかった!」と笑って言ってくれたのが、今までの時間をふっ飛ばした。  

アンケートに答えてくれた皆さんありがとうございました。  
「訳が分からなかったけど楽しかった」という、率直な意見が嬉しかったです。  
ダンスに対して訳が分かる必要などさらさらない。  
観る人の体内で暴走が起こるかどうかだけだ。  
そんな舞台になったことを、素直に喜びたい。
昨年の第一回公演から丸一年。  
ダンサー達は色々な意味で成長した、ということだ。  
明日はゆっくり昼集合にした。  

5 月 21 日

12 時入り。  
別段修正は無いが、何かそれぞれが腑に落ちないところを点検する。  
私として物足らないのは、ダンサー達がうまくなっていることだ。  
うまさ、つまり、「やるべきこと」がすんなり出来るようになっているから、その「やるべきことをやる」になってしまうきらいがあるのだ。  
それは、殆どの人がそうだ。  
そうなると、それは死んだモノになる。  
やるべきことをやるのではない。  
その場に存在する為にやるべきことがあるだけなのだ。  
昨日桜井圭介さんが観に来てくれ、飲み会で「妙齢の二人が最高でした」そして「こんな舞台を観たかった」と最高の賛辞を贈ってくれた。  
それは、やるべきことをやっているのではなく、二人で何が起こるのか分からないという状態をどんどん作り出していたからだ。  
つまり、生きているから、これから起こることなど予測不可能ということを、ドキュメンタリーでやっていたのだ。  
もちろん、ここのところは難しい。  
武道の稽古が難しいように。  

5 月 22 日

吉祥寺公演無事打ち上げ!  
初日から尻上がりに、入場者数が増え、楽日は満席を通り越し、チケットを買えなくてロビーでウロウロする人まであらわれた。  
嬉しい嬉しい公演になった。  
アンケートを読むと、もちろん、様々な見方や意見があるので、横並びで「良かった」ということはない。  
しかし、総じて二幕目の「マクベスへ」の平岡さんや和太鼓に圧倒されたがあり、一幕目の強烈な緊迫感の美しさも上げてくれていた。  
平岡さんの迫力は、役者の命とも言うべき声。  
それを壊しても演じきる、太鼓に臨む、 12 人のダンサー臨むという姿勢が、その迫力を生んだのだ。  

RealContact は、おざなりの公演では無い。  
ワークショップで培った技術を発表する、発表会でも無い。  
その舞台に、自分自身の生き様や、明確な共演者と正面から対峙する場である。  
その結果が、舞台の迫力に繋がっていくのだ。  
公演終了後、何だか無性に寂しさがこみ上げて来た。  
打ち上げで浮かれられなかった。   桜井圭介さんや、愚息をプロデュースしてくれている事務所が、今公演を見てバックアップを名乗り出てくれた。
そのことが頭にあったから、浮かれる訳にはいかなかったのだ。  

また、画家の寺門孝之さん、六次元カフェの中村さんや、桜井圭介さん他、多数の人が「ツイッター」してくれたことが、今回の集客に大きく影響した。  
ほんとにありがとうございました。  
そんな、人の関わりが皆には分かるのだろうか?  
吉祥寺公演感想

6 月 12 日

先日の本部の稽古に、小学 4 年生でレスリングをやっている少年が、お父さんに連れられて来た。  
1 年ほど前から、何か問題があるとやってきて、それを一緒に解決する。  
先日は、私が相手をして見た。  
なるほど、全ての動きが明確だ。  
意思がハッキリと感じ取れる。  
これは、武道をやっている人とも、ダンスをやっている人とも違う。  
それは練習の行き着く先が試合であり、相手に勝つことだということが、明確に自覚されているからだ。  
そして、稽古相手をしている私は、確実に他人であり、試合の相手なのだ。  
という分析をしてみる。  
しかし、本当はそうなのかどうなのかは分からない。  
もっと無邪気にレスリングを楽しんでいるだけかもしれない。  
私自身の 10 歳を振り返っても、何一つ明確なものを言葉としては持っていなかった。  
しかし、確かなことは「面白い!」と感じられる何かを、取り組むことに感じていた。  
その「面白い!」の連続が目的を達成させる。  
以前にも書いたが、この少年は吉田沙保里選手にファンレターを書き、日本一になることを誓ったそうだ。  
もちろん、だからどうなんだ、という話ではない。  
それくらい、一直線だということだ。  
その誓いは、西日本で優勝したり、県レベルの大会では優勝を逃したことはない。  
という結果に結びついている。  
だから、動きが明確にしようとしている訳ではなく、意思をハッキリさせようとしている訳でもなく、稽古相手を試合の相手だと自覚しようとしている訳でもない。  
そんなことは、頭で作り出す理屈に過ぎないから、それをしても、その周辺にある色々な情報を掴むことは出来ない。  
したがって、全く意味が無いのだ。   そ
んなことを、その少年との稽古で改めて感じさせてくれた。  
稽古の為の稽古になるような稽古はするな!と、ダンサー達に言う。  
やらなければいけない、と思うようなら、直ぐにダンスを止めなさい、という。  
そんな理屈に縛られた自分を、どれだけ解放させることが出来るか。  
神戸公演まで、後 6 日。  

6 月 13 日

13 日になった。  
今週の土曜日は、神戸ダンスボックスでの公演本番だ。  
吉祥寺公演が終わり、何かが終わったのか、何かは続いているのか。  
それぞれの中ではどうなっているのだろう思う。  
一過性のものなのか、連続性を持たせることが出来るものなのか、だ。  
昨日は、神戸組み単独の最後の稽古だった。  
電話でシゲヤンに稽古の状態を聞いた。  
もちろん、稽古としては、振り付けとしては問題ないという。  
しかし、それが出来るということと、その事に商品価値の有無は別だ。  
つまり、商品として仕上がっているのかどうかが問題なのだ。  
この考え方が希薄なのが、コンテンポラリーダンス界だ。  
むろん、クラシックバレエも同じだ。  
私はフリージャズをやっていた時、絶対にこれで食ってやる、と決めていた。  
その為には、どうすれば集客できるか、を考えた。  
スタンダードなジャズなら、ある程度ファンがいるのでコンサートは開ける。  
しかし、フリージャズとなると、ファンなどいない。  
だから、そこを開拓していかなければならなかった。  
そうなると、初めてフリージャズを聴く人にとって、魅力のあるものでなければ次は無い。  
そんな自覚は暗黙の中で持っていた。  
だから食えた。  
しかし、そういったプロ魂というようなものが、全く見当たらないのが、この世界のダンサーだ。  
そんな自覚の芽生えから、育てていかなければならない。  
その為には公演という舞台も必要だ。  
という流れの中での神戸公演だ。  
神戸組みの稽古は二幕目のものだ。  
吉祥寺以上の熱気と弾け具合が出るか。  
その意味でシゲヤンに、メンバーを追い詰めろと指示を出した。  
一幕目の変更は頭にある。  
後は、リハーサルで作り込むだけだ。  
山田君と佐藤君のデュオを、吉祥寺では楽日に試みた。  
それはかなり良い出来だった。  
だから、これは神戸ではプログラムに入れる。  
高原さんとシゲヤンのそれぞれのソロをもう一工夫させよう。  
小口さんもソロが良いだろう。  
私と平岡さんの絡みをもう一ひねりいるのかどうか。  
いっそのこと、私もソロをやってやろうか。  
とにかく、吉祥寺公演とは違うプログラムだと思われるようにしよう。

6 月 17 日

平岡さんが入っての 2 幕リハ。  
全員死んだ。  
平岡さんのアクションを見ながら大詰めをコントロールするのだが、中々平岡さんが終わらない。  
「え〜〜!まだ〜」  
和太鼓を叩く手は完全にバテバテ。  
ダンサーチームも完全に切れて、倒れるもの続出。  
「こら、あかん」   とアイコンタクト。  
曲を終えたら、全員バタン!
息切れではない。  
そんな生易しいものではない。  
バタンキューだ。  
「平岡さん、ながいで」  
「え〜、僕も長いな〜と思ってましてん」  
「え〜」  
そんな調子で 2 幕目リハは、今日は 2 回だけ。  
それ以上出来る体力は出てこない。  
その他の時間は、一幕目のグレードアップに費やした。  
平岡さんと  
「ワークショップにしろ、教室にしろ、ダンスとか役者とか表現に関わる人の、基礎的知識や、基礎的訓練を変えなければ駄目ですね。全く表現ということを分かっていないから」  
むろん、今回のメンバーは、現在活躍している人達がほとんどだ。  
その意味では、通用しているのだ。  
しかし、自分自身が一生をかけて、そのことを掘り下げて行く事は出来ない。  
だから、そんなことを全く考えていない人は、そのままで良いのだ。  
自分をどのレベルに引き上げたいのか、そこに無限の可能性を求めるのか。  
もしそうであれば、基本的な知識や訓練が必要だ。  
掘り下げるべき、引き上げるべき手段を持っていなければ、そんなことが実現することも無い。  
この訓練の結果、自分なりの発見をした人が現れた。  
それだけでも、この土壇場で基礎的訓練をした意味があった。  
「何をしているのか分からない。
それをやっているだけだ」   その一言から訓練は始まった。  
「今、言わなくても」と平岡さん。  
「いや、今だから効果が出るかも」と私。  
切羽詰まった時、人は力を発揮するのだ。  

6 月 19 日

昨日 18 日、無事神戸公演の初日が開いた。  
初日に関わらず昼夜二回公演というのは、超ハードだった。  
面白いもので、元々ダンスボックスでのショーケースで生まれた、   平岡さんと私とのデュオはお互いに「古い」と感じてしまった。  
ゲネを終えてのことだ。  
「どうして」お互いに新鮮ではなかったのだ。  
むろん、それの全ては精神的なものだ。  
それを超える為に、曲を変えてみた。  
しかし、初めて来てくれる人には、きっと分からない。  
そんな葛藤を抱えたゲネだった。  
また、全く緊張感の無い、神戸の棒組み連中。  
それに切れて緊張感を持たそうと、本番ギリギリまで追い込んだ。  
舞台に立つとはどういうことか、そんな基礎的な事を全く分かっていないからだ。  
しかし、それは今日までの舞台で、何一つ要求されてこなかったからだ。  
むろん、才能ある人は、要求されなくても自覚的に気付き、その事を超える。  
しかし、そんな人は稀で、大方は要求され追い込まれ蓄積されていくのだ。  
ここでも書いて来ている通り、初日はガラガラかも、と思っていたが、予想以上のお客さんが足を運んでくれたのはありがたい限りだった。  
ビフォアートークで、公演の主旨や内容を話し舞台を進行した。   東京からも沢山の人が駆けつけてくれた。   しかも、吉祥寺で 2 回 3 回と観てくれた人が、毎回違うから神戸ではどう変わるのか、を見極めたかったからと話してくれた。  
「全く違うので驚いた」
神戸で、劇的に進化した山田君や高原さんを見て、感動したとも言っていた。  
もちろん、言いだせば色々あるが、とにかく初日は開いた。  
といっているうちに今日は楽日。
画家の寺門さんは、今日も来てくれる。  
食事会の席で、二幕目について盛り上がった。  
芸術家の頭の中は本当に面白い。  
どんな感性をしているのか、頭を開いて見たくなる。  
表現の話になり、「コップはコップや」という言葉に思い切り反応してくれた。  
人の思い込みを徹底的に排除する姿勢が共通しているのが嬉しい。  
今日は、美味しい打ち上げのお酒を飲めるだろう。

6 月 20 日

神戸公演、無事楽日を迎える事が出来ました。  
みなさんありがとうございました。  
遠く九州から船や自動車で、東京からも、と、遠方からわざわざお越しいただき、大入りにこぎつけることが出来ました。  
ダンサー達も、成長の糸口を見付けた人、混乱したままの人、そのままの人、そんな明暗をクッキリと見せてくれた最終公演でした。  
その意味では、観客の皆さんにとっては非常に楽しい舞台だったと思います。  
舞台監督をしてくれた竹ちゃんは、打ち上げの席で  
「昨年、今年と続いた RealContact は、これで終わりの方が良いと思う。後はダンサーさん達がどう成長していくのか、という自分自身の問題だと思うよ」  
とコメントをしていました。  
画家の寺門さんは、
「驚きの連続で、昨日と全く違う雰囲気になっていた。今日は、全くコメントがありません。参りました!」
と大笑していました。  
アンケートの回収率も非常に高く、皆さん何かしらの刺激になったことを実感し、改めて公演をやった意味があったと喜んでいます。  
特に「元気になりました」という、吉祥寺シアターでの感想と同じものが沢山あったこと、そして言われたことです。  

神戸公演の感想)  
それは、日頃ダンスを見ない人達からのものです。  
そういった人達から「またやって下さい」と言われたことこそ、 RealContact の主旨通りであり、一番価値がある言葉です。  

東京から手伝いに来てくれた道場生、ダンサー達はもう帰れたかな?お疲れ様でした!!  

6 月 22 日

昨年は岡山と埼玉で公演をし、今年は東京と神戸公演。
舞台が続いていると、それはそれで面白い。  
というのは、私自身の過去、つまり、ジャズをやっていた頃の舞台や演劇の音楽を作ったりしていた頃、母の舞踊の舞台、叔母の常磐津の舞台、衣装を作っていた大衆演劇の舞台他、私が関わったり当事者だった頃を思い出す。  
その事で、そういった舞台を統合した何かが言葉として、今整理され口をついて出て来るからだ。  
むろん、昔は良かった、という懐古趣味的妄想の話ではない。  
そんな様々な舞台を体験していると、現在の舞台の貧弱さが目につく。  
昨日は照明の話しになった。  
照明機材の発達が、舞台空間を変えていっている。  
それは、ある意味で素晴らしい事だ。  
しかし、私が知っている舞台は、アナログそのものだったから、照明技師の腕一つで、舞台に立つ人が死ぬか生きるかになる。  
現在は、パソコン抜きでは成り立たない。  
しかし、パソコンにプログラミングしたもの、そのプログラム通りでなければ成立しない舞台と、舞台での進行に合わせてどうとでも対応できる照明と、と言えば、私は後者を選ぶ。  
プログラミングした照明が悪い、と一概には言えないが、何が起こるか分からない舞台には対応できない。  
何も起こらない舞台では、つまり、計算だけで作られた舞台には完全に適応する。  
それはショービジネスの世界の話しだ。  
その世界の舞台と、演者の「生=リアル」が売り物の舞台とは、自ずと異なる。  
以前、私の作った舞台でどう見ていても照明のタイミングが悪かったので、ここをもう少し遅らせてくれ、と言うと、「何秒ですか」と返事された。  
何秒なのかではなく、見ていたら気持ちの流れが分かるだろうに。  
それが分からない、見えないのだろうと思った。  
そういった生の鼓動が好きで照明しているのではなく、照明という技術を習ってやっているだけ、そして、そのプログラム技術が好きなだけでやっているとしか思えない。  
そんな人は、明りそのものの事を、やたらと分析的に知っている。  
もちろん、それも大事な事だが、それを現場で有効にどう使えるかということの方が、当たり前だが大事だし、それが目的の筈だ。  
そんな話が通用しない技術人が増えている。  
そうなると、私は古いのかもしれないと思う。  
しかし、演者の気持ちの流れを体感出来ない人と、関わる事は出来ない。  
関わりたくない。  
そういうことを最も体感できる人が、様々な舞台を作っているのであって、そうではない人は作ってはいけない、と私は思う。

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